
コラム
「玉川堂から独自の木目金技術へ 玉川宣夫」2018/02/19
 海外でも「MOKUMEGANE」の名で知られる鍛金の技法「木目金」。異なる種類の金属板を2・30枚積み重ね、叩いて板状にしたものを部分的に表面を削り落としてさらに叩き込み、木目調の金属板にし、器状に成型していく技法です。この木目金を作り上げるには、気の遠くなるような作業に耐えうる精神力と、完成時の模様を予想しながら削る熟練度が求められます。この非常に高度な技術を独自に研究し、重要無形文化財に認定された作家が、玉川宣夫です。
海外でも「MOKUMEGANE」の名で知られる鍛金の技法「木目金」。異なる種類の金属板を2・30枚積み重ね、叩いて板状にしたものを部分的に表面を削り落としてさらに叩き込み、木目調の金属板にし、器状に成型していく技法です。この木目金を作り上げるには、気の遠くなるような作業に耐えうる精神力と、完成時の模様を予想しながら削る熟練度が求められます。この非常に高度な技術を独自に研究し、重要無形文化財に認定された作家が、玉川宣夫です。
 1年生の時に燕市内の「玉川堂」に養子として入りました。玉川堂は江戸時代より鎚起銅器の製法を継承しており、玉川宣夫はここで玉川堂5代目の玉川覚平に師事し、鎚起銅器の伝統技法を修得。21歳の時に金工家の関谷四郎の作品に感銘を受け、弟子入りを志願。二年間関谷のもとで内弟子として修業し、1969年第16回日本伝統工芸展に初入選を果たします。しかし、入選はしても入賞まで辿り着けなかったことから、当時まだ取り組む金工家が少なかった「木目金」に目を向け独自に研究。1982年、第29回日本伝統工芸展で「木目金花瓶」を出品し、NHK会長賞を受賞すると、作品を文化庁へ納入しました。
1年生の時に燕市内の「玉川堂」に養子として入りました。玉川堂は江戸時代より鎚起銅器の製法を継承しており、玉川宣夫はここで玉川堂5代目の玉川覚平に師事し、鎚起銅器の伝統技法を修得。21歳の時に金工家の関谷四郎の作品に感銘を受け、弟子入りを志願。二年間関谷のもとで内弟子として修業し、1969年第16回日本伝統工芸展に初入選を果たします。しかし、入選はしても入賞まで辿り着けなかったことから、当時まだ取り組む金工家が少なかった「木目金」に目を向け独自に研究。1982年、第29回日本伝統工芸展で「木目金花瓶」を出品し、NHK会長賞を受賞すると、作品を文化庁へ納入しました。 最初の入賞から4年後の第33回日本伝統工芸展では「銀、銅、赤銅」を溶接し叩きだして作り上げた「木目金花瓶」を出品すると、東京都知事賞を受賞。
最初の入賞から4年後の第33回日本伝統工芸展では「銀、銅、赤銅」を溶接し叩きだして作り上げた「木目金花瓶」を出品すると、東京都知事賞を受賞。| 
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