
コラム
「急須の価値を高めた 三代山田常山」2017/06/26

急須といえば常滑焼。
常滑焼といえば急須。
「急須」もしくは「常滑焼」といわれると、滑らかな表面の朱色の急須を思い浮かべる人が少なくないと思います。自らが持っていなくても、実家や親せきの家の食卓に、空気のように自然と溶け込んでいる風景が目に浮かぶ人もいる事でしょう。日本人にとっての「お茶」は、着物を着て抹茶碗でいただく「お抹茶」より、普段着で日常に飲む「煎茶」を指す事の方が圧倒的に多く、煎茶を入れる為の急須はお鍋やフライパンと同じ位、生活に欠かせない道具でした。
その日常の道具、「急須」の価値を高めようと、生涯にわたって急須一筋に歩み続けた陶芸家がいます。常滑に生まれ常滑で育った三代山田常山。彼は日本で初めて「常滑焼(急須)」で人間国宝に認定された陶芸家でもあります。
に愛知県常滑市に生まれました。祖父は朱泥茶器の名工と言われた初代山田常山、父は二代常山で、少年の頃から二人の名工に基礎的な陶技を学び、中学に入る頃には轆轤による急須作りを始めていました。おそらく物心がついた頃から、進路は常滑急須作りに決まっていたのでしょう。1941年に愛知県立常滑工業学校窯業科を卒業。1961年に父二代常山の死去により、三代山田常山を襲名。1958年(昭和33年)第5回日本工芸展で初入選を果たしました。この時、同じく入選したのは「色絵磁器」の酒井田柿右衛門や加藤土師萌、備前焼の金重陶窯、萩焼の三輪壽雪、鉄釉陶器の石黒宗麿など、後の人間国宝となる豪華な顔ぶれ、作品も「茶道具」や「壺」「鉢」などのどちらかというと鑑賞用のものばかり。そんな中、愛知県からの入選は三代常山ただ一人で、それも出品した作品は、生活の一道具である朱泥の急須でした。
三代常山が再び日本工芸展(1999年)に朱泥急須を出品したのは、最初の出品から実に41年ぶりの事でした。長い間封印してきた朱泥急須の出品、一体どんな心境の変化があったのでしょうか。
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