
コラム
「桃山陶の通説を覆した荒川豊蔵」2017/01/16

志野焼は桃山時代の天正・文禄の頃に美濃で生まれた日本独自のやきものです。もぐさ土という柔らかい土を使い、筆で絵付けをして長石釉を掛けて焼いた日本で最初の白い陶器といわれています。当時茶の湯で大流行したのにもかかわらず、短い期間のうちに生産効率の問題などから衰退し、400年もの間途絶えていたという謎の多いやきものでもあります。その志野の再現に、人間国宝の荒川豊蔵が取り組む最初のきっかけとなったのは、1930年の「志野筍絵筒茶碗」との出会いがあったからでした。
荒川豊蔵は、28歳の時に画家を志して上京するも断念。その後縁あって京都の宮永東山窯に工場長として勤めていました。この東山窯を訪ねてきた北大路魯山人が会員制の高級料亭星ヶ丘茶寮で使う食器を造るため、鎌倉に星ヶ丘窯を設け、その窯場主任として迎えられました。
桃山と同じ半地下式大窯を築き、とことん桃山期の制作工程や窯を追求しました。そうして手探りでなんとか漕ぎつけた初窯はあえなく失敗。それでも古窯跡に残る陶片を手がかりに試行錯誤を重ね、少しずつ桃山陶に近づいていき、1955年、ついには第一回重要無形文化財の認定で志野と瀬戸黒の2分野で選ばれる程になりました。ちなみにこの時の認定で2分野の指定を受けたのは豊蔵のみで、さらに日本の伝統的な陶技の技術という分野から選ばれたのも、豊蔵の志野と瀬戸黒という美濃の桃山陶だけでした。
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